真夜中オタク戦争

語彙力は無い

誰にも届かないで欲しい望海風斗さんへの重めな気持ち

そろそろ落ち着いてきたと思う。のでぼちぼち望海さんとか雪組への思いを書き留めておこうと思います。

一番最初に思うのは出会えてよかった。だいきほを知らない私がいる平行世界がきっと存在するだろう。けどそこにいる私より今文字を打っている私の方が絶対に幸せだ。人生は幸せだった。まだ終わらないけれど。

今思うと青春を共にしてきた存在だった。思春期の間にあの非日常にどれだけ助けられたか。あの時は本当に生きる目的そのものだった。もちろん今もそうだし助けられている。

宝塚を、望海さんを、知らなかったら

世界に琥珀色の雨が降る場所があるなんて知らなかった。

マクシミリアン・ロベスピエールなんてただ教科書に載ってた革命家の1人だった。

タンゴの情熱、オペラ座の怪人が抱えている闇と光、吉村貫一郎という隊士の人情と義、過去をすべて背負って一人生きていく男の背中。全部望海さんが教えてくれたこと。望海さんを知ってたから全部私の中にあるんだよ!

今回のfffもすごく今の私に刺さった。「不幸」を「運命」として受け入れる。セラヴィだね。そして今を生きる人への盛大なエールだと思う。SNSって人の幸せしか見えなかったり隣の芝は青く見えるあの現象が起こることが日常茶飯事でずっと見ていると世界で不幸なのは自分だけじゃないかと思うことも日常茶飯事だったりする。特に今、私はずーっと家に引きこもって友だちとほぼ会ってないけれどインスタを見れば同年代の子がディズニーに行ってたり飲みしてたりなんだか私が馬鹿みたいだなって思うこといっぱいあった。今まではそんなことないよ!他の人も苦しんでたりするんだよ!っていうのが多かったけれど自分の「不幸」さえも「運命」なのだと、そしてそれを愛するという難しいけれど達観した作品の目に大きなヴェールですっぽりと包んでもらったような救いがあった。きっと悲しみや苦しみの果てにたどり着いた時運命を愛せるのだろう。

 

そして楽の日の夜、私は大泣きした。やっぱり悲しくて。何も出来なくて、でもどうにかしたくて音楽にすがりついた。状況は違えどベートーヴェンもこんな感じだったのかななんて頭の片隅で思ったりした。

「泣かないでくれ、ダーリン」という歌詞にやられた。ノックアウトだ。瞬発的に挨拶で涙ぐんで声を詰まらせた望海さんを思い出した。癒してもらいたくて聴いてた曲に刺されるとは。察しがいい方はキリンジの「エイリアンズ」だと気づいただろう。そう、ダーリンなのだ。私が好きなふたりは私にとってダーリンなのだ。もちろんリアコ、ガチ恋、同担拒否でもなんでもない。ただただ愛しいのだ。ただただだいきほが私にとって愛しい人なのだ。望海さんの涙は美しい。最後の大階段を降りてきてあの場でぽろりと涙が零れたら一生忘れない瞬間になるだろう。人生で何回も反芻するだろう。けれど望海さんはあの場面において組をたばねるトップスターとして存在することを選んだから涙を流さず気丈に振る舞い、あの場が必要以上に暗くなることを望まなかったのではないだろうか。全部私の推測にしか過ぎないけれど。

「泣かないでくれ」。たくさんのニュアンスを含む言葉だけれど私は望海さんに真彩ちゃんに退団者の方々に雪組生に泣いてもいい泣かないでくれを言いたい。

まるで天上にいるような、違う星の人のようなタカラジェンヌ。他界隈から見たら「なんかすごいよね、宝塚ファンって」と言われる私たち。異星人なんだと思う。「そうさ 僕らはエイリアンズ」なんだと思う。望海さんが「皆さんに会いたいです」とおっしゃった時私たちがいる星とタカラジェンヌがいる場所とでピピピと周波数が合った。一瞬でも交わった。そう思った。僻地に魔法がかかった瞬間だった。

 

この光景が映写機で映されているならばもうフィルムが終わる頃なのだろう。譜面で言うならばコーダだろう。でも最後の音が鳴って残響が空間を少しでも震わせているならば、その響きが震え落とすときめきやキラキラを呼吸と共に吸い込みたい。最後の最後まで大好きなふたりをどの感覚器官にも焼き付けて一生消えない痕を作ることが目標。重たいよね。知ってる。

知ってるよ〜!!!!!!!!!(こんなクソデカ感情持ち拗らせオタクになりたくなかったオタクの絵文字)