真夜中オタク戦争

語彙力は無い

謎の女とトートは全くの正反対なんですよ 雪組fff 独断と偏見考察

謎の女ちゃんはトート閣下ではない!!!!!

どうも、石油が切れて身も心も凍り付きそうなまことちゃんです。

fff、すげ~…ってぼんやりしてたらもうね、時が進んでいました。なにをしていたのだろう自分。ムラ楽前は東京までの間に望海さんの過去作見返して…あれしてこれして…って思ってたんですけど何一つできんかったね!!!!!なにをしていたのだろう!!!!ちなみにチケットのこと考えたら眠れなくなった日が4日ほどあったのは覚えています!!!!

まぁそんでもってTL見てたら「謎の女ちゃんってトートっぽいよね。似てるよね。」的なのが浮上していて

否!!!!!!!!!!!!!!!

と思いましたので論じます。(あくまで私の論ですのでお手柔らかにお願いします。)

そしてこれから本編最後の方についていろいろ言っているのでネタバレ注意でお願いします。

というかみんなさぁ、黒い服で概念の役で何となく不吉っぽいからトートって言いくるめたら謎の女ちゃんかわいそうじゃん!!謎の女ちゃんは謎の女ちゃんなの!!!!オリジナルなの!!!!!って言うとりますけども…

謎の女ちゃんは「生」である。

先に結論言いましたがこれだと私は思います。トートとは概念が根本的に違う存在であると私は考えます。そもそも真反対であると。

謎の女ちゃんが「不幸」ならば間違いなく謎の女ちゃんは「生」です。謎の女ちゃんは「生きること」そのものなんですよ。

そもそも人間の人生においてなぜ不幸が存在しているかというと

それは人間が「生きているから」なんですよね。

生きているから幸せや不幸の概念がある。生きているから苦しみ、哀しみ、嘆きが生まれる。

「死は救いなの。」

それは人間が生きることで生まれた不幸という存在である謎の女ちゃんだから言えること。生きることの辛さを知っているから「死は最後に生が与えることができる救いである」と謎の女ちゃんは言っているのかな。「死は逃げ場ではない」を言うトートは元々死そのものの概念だったからこそ死は救いだとは言わない。謎の女ちゃんとトートでは抱えている死生観の根本が違うと思うんですよね。だってトートが死が救いだと思っていたらルドルフが死んだ時シシィの命を奪いますよね。しかも自分から助けに行くと思いませんか?愛するシシィが苦しんでいるなら最後の救いを与えるために死を与えると思うんですよね。でも死は逃げ場ではないとシシィを突き放す。謎の女ちゃんは耳が聞こえなくなったルイを思ってライフルを突き付ける。なぜなら謎の女ちゃんは死は救いであると思っているから。耳が聞こえなくてもう終わりだと世間に見放されたルイへの最後の救いのために死を与える。苦しい生を終えるために。謎の女ちゃんが「生」であるからこそできるのでは?

まぁそもそもエリザにおけるトートという概念は不安定なもので、もしかしたらシシィまたはルキーニが生み出した個人的な存在かもしれない。エリザベートという物語そのものがルキーニの狂言かもしれない。エリザについて話し始めちゃったらながーーーくなっちゃうので今回はあんまりしないんですけど…トートはTod(死)なので誰の中にもいる概念だとは思うんですけどね。そしたら謎の女ちゃんも最後の方で私みんなのところにいたって言ってますから存在の在り方自体は似ているのかなと………でもきっとあの姿で現れるのはこの物語の中だけなんだろうな。エリザのトートの外見はシシィが心酔したハインリヒ・ハイネがモデルともいわれています。あくまで死や不幸などの抽象概念は想像の存在。感覚ないし経験を超え出でたものなので。

なんでfffがエリザを連想させるのかなぁと思っていたのですが多分抽象概念と結ばれるというところにあるんだろうと考えます。個人的にエリザではシシィとトートは真の意味で結ばれることはないと思っているのですが今回のfffは完全に概念と愛し合うことを成し遂げているので若干そこがエリザを呼び起こすのかなぁ。それに二つとも負の概念と対峙することが物語の主軸になっている部分もあるからかな。でもねぇ、似てはいないよ。なぜかってこの二作品における掲げているテーマが対になっているように感じるんですよね。エリザベートが「死への誘い」とか「メメントモリ」だったらfffは「生きることを愛する」という人生讃歌的テーマを堂々と発信しているように思います。

そして謎の女ちゃんが「生」の中でも「負の存在」であるというのは「運命」になる前でありますね。「運命」になっても「生」であることには変わりないけれど。生は陽であり死は陰であるかのような考えが世の中にはありますがおそらくそんなことはなく、生にも陰と陽は存在し、死にも陰と陽は存在する。謎の女ちゃんは生を陰として捉え、死を陽として捉えているように感じます。「不幸」である間は。

そしてルイの「お前の名前がやっとわかった。」「『運命』…生きることが苦しみでも、俺はお前という運命を愛するよ。」のセリフで謎の女ちゃんは多分初めて誰かに受け入れてもらえた。そしてルイの中での存在の仕方が変わった決定的セリフですよね。この生きるうえでの苦しみを受け入れ、そして愛するってすごく永劫回帰だしニヒリズム的に思えるんですよね…能動的ニヒリズムってやつ…そして超人になったルイ…みたいな。そもそもルイにはルサンチマンめちゃあったと思うけどそれを脱却して不幸を丸ごと運命として受け入れた…のかなとか思っているんですけど。

おいおい、永劫回帰とかルサンチマンとかなんだそれってなっている方には

山川の倫理用語集~!(某青いネコ型ロボット声)

を読んでいただきたい。私がツイッターでごり押ししてるやつですね!哲学用語ってネットで調べると余計意味わかんなくなるんだけど山川の倫理用語集は高校の教科書になぞって作られている参考書ですから本当にわかりやすい。ありがとういい薬です状態。fffではカントの名前が出てくるからカントの思想を軸に作られているのかなって思ってたんですがこの倫理用語集読んでると結構色んな思想があてはめられるなと感じます。さっきの永劫回帰とかニーチェさんのやつだし。

一応説明させていただくと

能動的ニヒリズムは「無意味な人生の悲惨さを直視し、力への意志に従って既成の価値観を壊し、新しい価値や目的を設定する態度。」(ニヒリズムは伝統的な価値観や権威をすべて否定し、破壊しようとする思想。虚無主義と訳されることもある。ニーチェは神の死により世界の統一的な秩序が消滅し、人生の意味や目的の意味が見失われるニヒリズムが到来したと説いた。)

ルサンチマンは「恨み・怨恨を表すフランス語をニーチェが弱者が自らの無力さゆえに強者を憎悪し、復讐しようとする心理を表す用語としたもの。」

超人は「生の根源的な生命力を発揮し、今までの人生や自己自身をこえでて、力強く成長する主体的人間像。伝統的な価値観が崩壊する中で、超人はニヒリズムの無意味さに耐え、現実のただ中で自ら意味や目的を生み出して、新しい価値の創造者となる。」

永劫回帰は「世界は意味もなく、永遠に繰り返す円還運動である。人間の生もこの世で体験した喜びや苦しみと共に永遠に回帰する。この無意味な世界の繰り返しの運命に耐え、それを己のものをとして愛し、充実させることが超人としてのあり方である。」

って全部山川の倫理用語集に書いてありました!!!!!優秀かよ!!!!!

哲学とか独学だし素人なのでほんと話題に出してごめんなさいって感じなんですが配信見たときにそう思ったんだもん…ゆるして…ニーチェとかベートーヴェンより全然後の人だけど…けどさ、永劫回帰の説明とかまんま最後の場面のルイじゃんって思いません?私は思いますぅ!!!(食い気味クソデカ声)世界は意味もなく、永遠に繰り返す円還運動ってなにそれシルクロード??(ショーとのつながりを強引に見出す奴)

そして「運命」となった存在と共に歓喜の歌を生み出すに至ります。詩のほとんどはシラーが書いた「歓喜に寄せて」という詩の一部なのですが、冒頭だけはベートーヴェン自身で書いたと言われているみたいです。

「おお、友よ、このような響きではない!

もっと心地よい歌を、

もっと歓びにあふれた歌を、

歌おうではないか。」

この部分がベートーヴェン自身が書いた文章だとされています。ハイリゲンシュタットの遺書には「私を引き留めたものはただ『芸術』である。自分が使命を自覚している仕事を仕遂げないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ。」と書いてあります。ハイリゲンシュタットの遺書は遺書とありながらも文面からは多くの憎しみや悲しみを抱えながらもメラメラと燃え上がる原動力のようなものを感じるんです。そしてルイ自身が最後の交響曲で「もっと歓びにあふれた歌を、歌おうではないか。」というところ。耳が聞こえないという不幸に支配された人間だったら書けない文章だと思います。運命による大きな不幸を目の前にしても握った一本の鉛筆を手放すことなく五線譜と向き合い、果てには運命とすら己の精神と溶け合い歓喜の歌を作り上げた。その人物のビハインドを知れば知るほど深い意味を持つような歌詞ですよね。そして「このような響きではない!」にはこれまでの既存の音楽の破壊、破壊から生まれる新しい創造を追及していたアーティストであり音楽に革命を起こした音楽家であるルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの最後まで尽きることない探求心と不屈の魂を感じるのです。

あらあら、これじゃfffの考察じゃなくて歓喜の歌考察になってんよ!!

とにかく!!ルイと運命がいくつもの障壁を乗り越えて人と運命が愛し合うという境地に至ったからこそこの歓喜の歌は生まれたのではないかと。そこには今までルイが持っていた憎しみなどは存在せず全て解き放たれている。そんな状態にあるように思います。

そして最後にあるロールヘンの手紙。そこでルイとナポレオンのわだかまりが完全に解消されたと思います。そもそもルイがなぜナポレオンにキレたかというと民衆が等しくあるために戦ってくれていたと思っていたのに自分のまわりの人間すべてを利用して皇帝になりあがったとルイが思ったからですよね。ここでカントの提唱する倫理学における根本的な原理である言葉を紹介させてください。

「汝の人格や他のあらゆる人の人格の中にある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱わないように行為せよ。」

これも山川の倫理用語集に書いてありましたほんとありがとう万能すぎ。カントの哲学ってなんかめっちゃ難しいんですけどこれは理解できました。この言葉は人格の尊重を説いたものなのですが多分ルイはナポレオンが皇帝に即位したときにこの言葉に反したと思ってキレたのかなぁと。でもロールヘンの手紙によってナポレオンは手段として人間を扱うと思っていたルイの考えは砕かれた。セントヘレナには民衆を手段や道具として扱うナポレオンは居らず、ルイが尊敬していたナポレオンが生きていた。

不幸も裏切りも幸福もすべて自分の人生だと受け入れ、「音楽は俺たちのものだ!」というルイの声は民衆だけにとどまらず神のいる天上界にも届くことでしょう。そもそも音楽は誰のもの?という問いもルイの前では野暮なことなのかもしれない。各々持っている音が自分の音楽でありそれはだれのものでもない。ただ、一人が音を鳴らしたときに共鳴した誰かがまた音を出しそれが重なり合って大きな音楽を生むことがあるならば。それが歴史上にある革命や戦争を巻き起こした原因なのかもしれない。けれどそれはトラブルしか起こさないわけではない。喜びを人々にもたらすこともある。

音楽がルイの人生や運命をつかさどったように私たちの中にも同じようなものがあるかもしれない。

ルイにとっての「音楽」が「人生」なのだとしたら。もしかしたら謎の女ちゃんもルイの「音楽」に近しい存在なのかもしれませんね!

そしてやっぱり「この世界に別れを告げる時間だ。」と言われて白いお衣装なのはメタ的な目線がないとは言えないですよね。この世界に別れを告げる時間は二つの意味でなんだろうなと。

そして望海さんの声で「アンコール!」があるのがほんとウエクミ憎い演出よな~!!!あるのとないのでは全く違う。それに「人生は幸せだった!」を聞けるのファンは歓喜に歌いながら成仏するじゃん。

「この世に別れを告げる時間」「人生は幸せだった!」というふたつのダブルミーニングを用意してくる久美子ほんと…憎いわ…ありがとう………この物語でルイが自分の人生をすべて肯定するのも泣けてくるしもう一つの意味でも泣ける……望海さんの宝塚での最後の役がルイでよかったと思わせてくれる。そんな愛おしく思える役作りをしてくれた望海さん。だいきほの最後を歓喜に彩ってくれた上田久美子先生には感謝しかない。だいきほの宝塚人生までも歓喜に歌わせてくれたfff。

ほらやっぱりfffって人生讃歌なのよ!

これほどまでの餞があるだろうか。いや、ない。って反語使いたくなるレベルに素晴らしかった。この公演に携わっていただいた方本当にありがとうございます。大好き。

 

ということで配信見てから考えたり思ったりしたことはいったんこれで区切ろうと思います。有難いことに劇場でも観ることができるのですっごく楽しみです。早いことにムラ楽から一か月経ちこれを書いているとき実は見た記憶がほぼなく、ルサンクの脚本を読みながら書いていました。脚本あるとやっぱり助かる。これから生で観たときどんな風に思うか、また違うことを思ったらこうして文章にしたいと思います。

え?ルサンクの脚本初めて読んだときに衝撃過ぎて声も出せなかったこと言っていい?いいんですか言っちゃって……

謎の女ちゃんがさ…「運命」になってからさ…役名がさ…

「運命の恋人」になってたの…

ゥワアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!久美子それはヤバ(ここで手記は途絶えている)