真夜中オタク戦争

語彙力は無い

「上田久美子」とはヅカオタにとって何だったのだろう?

 

どうも、お久しぶりです。まことちゃんです。

根も葉もない噂って普通に存在しますよね。ソースどこだよそれってやつ。

 

数日前、とあるツイートを目にして俺のマグマが噴火しそうでした。

「ウエクミ先生、三月末で退団したってよ…」

桐島、部活やめるってよ」みたいに言うな。

そしてソース is どこ。

まさか某「それってあなたの感想ですよね?」氏創設掲示板じゃないだろうな?あそこはだいたい嘘で固められてますから!そんなの古よりインターネットにはびこる連中にはお見通しなんですよ。そして可能性として一番ありそうなウエクミ先生をチョイスするあたり、なんだろう妙にリアルなんでやめてもらっていいすか?

ソースもはっきりしてないでツイートするなどインターネットリテラシーの片隅にも置けんわ。解散解散。

私は捨て台詞を吐いてツイートをスワイプして消しました。

「なんかそういうデータあるんですか?」

 

そして今、2022年4月7日。

私「本当だったわ……………」

頭の中コウメ太夫でいっぱいですわ。

「でまかせの情報かと思ったら〜♪ 本当のことでした〜♪ チックショー!!!!!!!」

チックショーだね。情報戦に負けたという意味で。そういうデータありました。ほんとすみませんでした。

 

でも何となく、いつかこういう日が来るような気はしてた。ここ近年のウエクミ先生の作品を観た方はどこかで感じ取っていたと思うんですがいかがでしょうか?

私にはウエクミ先生の作品が宝塚のスター制度やそもそもの基盤のアンチテーゼに感じる時がありました。トップスター(または主人公)とトップ娘役(またはヒロイン)がいて紆余曲折を経て結ばれるという、宝塚における暗黙の了解に対する反抗のようなもの。

ウエクミ先生が素晴らしい脚本を書かれる度に「なんてまた素敵なものを!!ありがとうございます!!!」と「ここの制約はウエクミ先生にとっては狭すぎるのかもしれない。」がひしめき合って、正直いつまで「作演出:上田久美子」を見られるのだろうと不安が消えないままでした。個人的にこの考えはサパで確信に近づいたかな。元々、転職という形で宝塚の演出助手になったウエクミ先生がずっとここに留まってくれるだろうかという不安もあった。

そして「fff」がやってきて。私はあの作品を観たことはヅカオタ冥利に尽きることだった。もちろん贔屓の退団公演ということもあるが、あそこまで壮大なスケールの物語を宝塚で観ることが出来たことが嬉しかった。人が生きていく上でまとわりつく生と死、幸福と不幸、慈しみと憤りをルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンという人物を通して見ることができた。他にこのような脚本を書ける方は果たしているのだろうか?と心底惚れ込んだ。

しかしやはり、確信した。この方は自分のお芝居を作る上でトップスターやトップ娘役という概念を更地にしたいのだと。トップスターを頂点にしたピラミッドは今のウエクミ先生のお芝居の中には存在しないんだと強く感じた。「fff」によって宝塚では縛りが多すぎるのでは?という不安がさらに大きくなった。

でもそこが私は好きだった。「宝塚」というどうしても約束事が存在する世界で目一杯自分が表現したいことをするそのスタイルが何より好きだった。時には社会派過ぎてすみれコードギリギリだと思うこともあったが、訴えかけるメッセージの中にも知性もあって何度も痺れさせられた。こんな私が言うのもアレだが憧れの存在でもあった。いつか上田久美子先生みたいなパワーのある知性を持つ人になりたいと思うようになった。

 

上田久美子先生には2つのフェーズがあったと私は思っている。

宝塚の様式美を重視した悲しく美しい作風のデビューから「神々の土地」まで、社会派作品に傾倒した「神々の土地」から「fff」まで。ここに「桜嵐記」が入っていないことは後に説明する。「神々の土地」は2つの要素が見事にグラデーションになっている作品であると思っている。私は皮肉屋なのでどちらかといえば後期の社会派作品が好き。

「fff」の中にはこのようなセリフがあった。

「国民の役に立つ音楽を書きたまえ。」

「民衆は、崇高な理想など求めていない。彼らはただ腹を満たし暖かいベッドで眠りたい。そのためなら革命の大義も唱え、それでも不満なら変節して皇帝を支持する。彼らにとっては革命でも皇帝でも音楽でもいいのだ。楽になれたら。いい曲を書きたまえ。国民が日々の憂さをを忘れるような。」

観ていてとても痛烈だと思った。演者を通して書き手の思想が客席にぶつけられているようだった。サパの時に見た「これ以上いくと演者が作者の思想を伝えるための道具になる」というツイートを思い出さざるを得なかった。

今は何もかもが消費される社会になり、エンターテインメントまで大量生産、大量消費になりつつある。客席が「楽しい」しか受け取ることが出来なくなったらエンターテインメントの発展は約束されるのだろうか?考えることをやめてしまったら人間はただの「葦」になってしまうのではないか?

今思えば社会派上田久美子作品の頂点は「fff」だったのかもしれない。このセリフにウエクミ先生の昨今のエンタメに対する危機感が込められていると私は解釈している。

そして先日「桜嵐記」を見た。実は観劇する予定だったのだが体調を崩してしまってそれは叶わず、映像で初めて見ることになった。

そこには初期の作風を思わせる「悲しく美しい上田久美子作品」があった。最後の演出には驚きと感嘆のあまり口を覆った。あれを劇場で観ることが出来ていたら圧巻だっただろう。過ぎたことは仕方ないが、後悔は残る。

「桜嵐記」で見せた久しぶりの美しい悲劇に「原点回帰か?」と思わされたが、原点にして終着点だったのだと今日知ることとなった。宝塚の様式美に贈る愛になったのだろう。

最後に、私は宝塚の制約に縛られないで上田久美子先生が本当に表現したいことを見ることが出来たらと常々考えていた。なのでこの退団を前向きに捉えることが出来た。しかし、そうではない方ももちろんいる。「もっと宝塚で作品を見たかった。」「贔屓に作品を書いてほしかった。」様々あるだろう。私がここまで書き連ねてきたものは上田久美子先生の退団に対しての一個人の感想であり、考えである。

ただ、宝塚から旅立つ上田久美子先生が何かドデカいことをぶちかまさないことなどない、と思いませんか?私はそれを楽しみにしている。ここで収束してしまったら私たちが愛した「上田久美子先生」ではないだろう。

これからはフリーの演出家として活動をされるそうだ。

宝塚歌劇の革命児が演劇界にも革命を起こしてくれることを楽しみにしております。

大好きです。